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Author:natasho
国民健康保険 名田庄診療所
中村伸一


施設名称 :
国民健康保険名田庄診療所
開設年月 : 1955年7月
所在地 :
福井県大飯郡おおい町名田庄下6-1
管理者 : 所長 中村伸一
診療科目 :
内科、胃腸科、消化器科、アレルギー科、小児科、外科、整形外科、皮膚科
併設施設 :
「あっとほ~むいきいき館」内に、診療所のほか、歯科診療所、訪問・通所介護事業所、国保総合保健施設、住民のための多目的室、町役場の支所などを併設。



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 今から10年くらい前のこと、ある肺癌の患者さんを自宅で看取ったときのお話です。
 田中正志さん(78歳、会社経営)は、京都市内の病院に肺癌の末期状態で入院していました。ここ名田庄は、福井県でもっとも京都寄りに位置するため、京都市内の病院に入院する方も、少数ですがおられます。
 正志さんは、肺癌の発見から治療まで、ずっとその病院で受けていて、治療をやり尽くし末期の状態になってから、名田庄の自宅に帰ることとなったのです。
 病院の主治医から電話があり、これまでの経過と現状を聞きました。肺癌の末期で在宅酸素療法はセッティング済みであること、飲み薬の麻薬は十分量飲んでいるが今後も痛みが増えると予想されること、今はまだかろうじて歩くことができること、などでした。
 その中で私がもっとも驚き、しかも困ったのは、癌であることを本人に告知していないことでした。私の場合、ほとんどの患者さんにありのままを話します。しかし、前医が告知していないまま紹介されたケースでは、その後の告知に悩むこともあります。
 それと、もうひとつ大切なことがあります。なぜ、この段階で自宅に戻ろうとしたのか? という理由です。
 正志さんには近所のお寺を立派にするという長年の夢がありました。幼い頃に母親を亡くし、成長するにつれて仏門に傾倒するようになりました。本気で僧侶を目指そうとした時期もあったと聞いています。
 若い頃から会社を経営するようになり、いつのまにか正志さんはこのあたりでも指折りの資産家になっていました。会社も息子さんに譲り、悠々自適の老後を過ごしつつあったころ、近所のお寺の改修工事のために、多額の寄付をすることを決意しました。ちょうどその頃に病気がみつかったのです。
 寄付金をもとに工事の話はトントン拍子にすすみましたが、正志さんには病気との戦いの日々がつづきました。
 いよいよお寺の改修工事が最終段階にかかるころ、病状は日に日に悪くなっていきました。居ても立ってもいられなくなった正志さんは、ついに自宅に戻る決心をしたのです。肺癌の告知はされていなかったものの、日に日に悪化する病状に、我が身の最期を感じたに違いありません。
 正志さんが自宅に戻ったその日の往診で、私は肺癌であることを告知すべきかどうか、往診車のエンジンをかけハンドルを握ったときには、まだ決めかねていました。
 告知するのは私のやり方ですが、前の病院の医師も家族も、告知せずにうまく正志さんとの関係を築いてこられました。私が告知することで、これまでの関係性が崩れることを一番恐れたのです。
 結局、考えがまとまらないまま、正志さんの家の前に往診車は着いてしまいました。
 ゆっくりと家の中に入り、正志さんに初めて会いました。鼻から酸素を吸いながら、ベッドの端に腰掛けていました。呼吸苦がつづいたため、やつれた顔ではありますが、眼光は鋭く、いくつかの私からの質問にも大きな声で答えてくれました。
 型通りの診察を終えた後、迷ったあげくに、こんな質問をしてみました。
私「もしも今後、息苦しくなったり、痛みがひどくなったとしたら、また病院に戻りますか?」
正志さん「いや、何があっても、絶対に病院には戻らないよ!」
 その言葉に強い意志を感じ、私は右手を差し出しました。正志さんは私の右手を力強く握りしめ、堅い握手となりました。言葉はありません。でも、その中で。。。
正志さん「中村先生、最期まで頼んだよ」
私「わかりました、できるかぎりのことはやりましょう」
 そんな男と男の約束があったように感じました。これで「契約成立」です。
 今はインフォームド・コンセント(説明と同意)の時代です。検査するとき、手術を受けるとき、輸血するとき、あらゆる場面で丁寧な説明がなされ、細かなことが書かれた同意書を読んだ上で、患者側と医療側の双方がサインをします。このために膨大な時間が費やされ、山のような種類が積み上げられます。ひとつの医療行為に対して、副作用や合併症の危険性が次々と述べられ、患者側はどんどん不安になります。心から納得し同意したのではなく「儀式だから仕方なくサインした」なんてことも少なくありません。書類によるインフォームド・コンセントの根底には、患者側と医療側の相互不信があると言ったら言い過ぎでしょうか。
 正志さんと私の間には、書類らしき物はありませんし、言葉すらありません。けれども、あの握手以降、家族・スタッフを含めた私たちの関係は、問題がないどころか、非常に良好な状態で経過していきました。あたたかな信頼関係がベースにあったと思います。
 車椅子に乗ることができる間は、酸素ボンベを携帯しながら家族がお寺の工事現場につれだしていました。車椅子に乗れないほどに衰弱してからは、写真やビデオに工事の様子を撮影し、ベッドサイドで正志さんに見せていました。
 お寺の改修工事が完了し、その落成式の朝、正志さんは自宅で家族に囲まれながら、静かに息を引き取りました。

コメント

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素敵です

「院長さん」と正志さんの間の空気感が伝わってくるエピソードですね。

待ちに待った落成式を、痛みもなく自由になった「カラダ」で、正志さんは笑顔で見ていらしたのでしょうね。

何とも言えない気持ちになりました。
患者と心を交わすと事の意味と言うのでしょうか。

勉強になりました。ありがとうございました。

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こんにちは

こんにちは
今日は 晴れましたが 蒸し暑いです。

今から2年前 仙腸関節炎になり
ほとんど動けなかったでした。
それでも 家で過ごせた。
同じころ 腰を痛めて 入院した友人が
いましたが 私は 横になっても
座っていても激痛でありながら
いつもの畳の上で寝て ラジオを聴いたり
犬や鳥がいて 家族がいて
車椅子は使ったが お買い物もできました。
気持ちは 落ち着いていた。
いつ治るのかに 不安はありましたが
家で過ごせて その時 良き先生と
出会い 心は穏やかな自分で過ごせました。
痛めたときが 8月のお盆のときで
ほとんどの病院がお休みの中
診察していた出会いでしたが
気持ちを支えてもらっていたこと
家で過ごせたことに 今でも
感謝で この8月になると
思い出します。

痛みが良くなってからは
あの痛みは2度とはと思ったので
毎週 水中歩きを続けて
維持しています。


リスペクト

インフォームド、コンセントって最重要課題ですね。セカンドオピニオンもね。相手を思いやりながらも核心を充分に説明するって日本人には、不得手な分野ですね。僕は、知らないほうが幸せよりも事実を知りそれも解釈しながら(きつい事のほうが多いなあ)のほうが幸せかなって!一度しかない人生ですからね。サッカーの社会人選手と審判員もやってます、審判シャツにRESPECTってワッペンをつけるんです。FIFA(国際サッカー連盟)の通達は、市民リーグや子供達まで降りて来ます。他を思いやるって世界共通だといいですね。今、僕が日本の医療に望む事は、小児精神科の専門知識をもった医師と看護師の育成だと思います。保育の仕事をしながら精神医療を学んでました。小学校へ出向した時も小さいうちに健康医学や福祉を学ばせて子供の頃から自分で体調管理できるように意識させる事も親や教師、大人の義務ではないでしょうか?僕が勤務してた保育園は、小児の医師が病気の相談や質問を受けてくれる為に定期的に保護者会(診療や健診では無く世間話をしながら和やかな雰囲気で病院では聞き難い事や医師も病院では言えない事なんかを話してくれてましたね)に来て貰ってます。医師の実習に保育実習を取り入って貰うと説明の仕方や相手が何を言わんとしてる事の理解力アップになるのでは無いかな?

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