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Author:natasho
国民健康保険 名田庄診療所
中村伸一


施設名称 :
国民健康保険名田庄診療所
開設年月 : 1955年7月
所在地 :
福井県大飯郡おおい町名田庄下6-1
管理者 : 所長 中村伸一
診療科目 :
内科、胃腸科、消化器科、アレルギー科、小児科、外科、整形外科、皮膚科
併設施設 :
「あっとほ~むいきいき館」内に、診療所のほか、歯科診療所、訪問・通所介護事業所、国保総合保健施設、住民のための多目的室、町役場の支所などを併設。



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 人は人生の最期に何を語るのでしょうか。
 平均寿命は女性の方が長く、今のご高齢の方は多くの場合、女性の方が男性よりも年下です。ということは、妻が夫を看取るパターンの方がはるかに多いわけで、夫は妻に最期の言葉を残すことになります。
 人生の最終段階で、夫はどんな言葉を妻に残すのか?職業上、多くの高齢男性の最期におつきあいしましたが、私は直接ご本人からその言葉を聞いていません。後で奥さんから聞いた話です。印象深い言葉を紹介します。
★「もう一度生まれ変わっても、またいっしょになろうな」
 こう言っては失礼かもしれませんが、無口で決して男前とはいえない男性が、最期の最後に奥さんに残した言葉です。かっこいいです。あまりにもかっこよすぎます。イケメンで饒舌な男性が、雰囲気たっぷりに語っても、こんなにかっこよくはならないでしょう。
 こんな言葉を贈られた奥さんは、ご主人のいない残りの人生を間違いなく幸せな気持ちで暮らすことができるでしょうね。
★「これまでありがとう。家で死ねて、いい人生やった。お前も最期は中村先生にここで看取られて死ぬんやぞ」
 典型的な亭主関白の方でした。頑固でわがままで、さんざん介護で奥さんに苦労をかけておきながら、最期にこんなふうに締めくくるなんて、ホントにすばらしいですよね。奥さんへの感謝の言葉ですが、私にとっても名田庄に残る決め手の一つになりました。
★「みそ汁がほしい。つらいときも苦しいときも、 あの一杯でどれだけ救われたことか」
 死ぬ間際には何も口にできないのが普通ですが、最期に食べるとしたら、何を食べたくなるでしょうか?
 この方も無口で、奥さんをほめたことはありませんでした。奥さんがつくった料理に対しても「おいしい」だとか「上手だね」なんてことは、一言も言うことがなかったそうです。ところが、何も言わなくても、奥さんがつくったみそ汁にはずいぶん感謝していたことがわかります。
 長い人生ですから、仕事や人間関係でつらいこともあったはずです。それでも、家庭では愚痴ひとつこぼさず何事もなかったようにふるまっていたのでしょう。毎日、奥さんのみそ汁を食べながら、つらいことを癒してきたけど、感謝の言葉を口に出すのも照れくさい。そのまま何十年も過ぎていった後に、人生でたった一度だけ奥さんをほめたのが、みそ汁でした。
 卒後3年目の平成3年に名田庄村(平成18年3月合併:現おおい町名田庄地区)の国保診療所に赴任してから、18年が経ちました。同じ土地に長くいると、地域での人間関係が深まり、それを仕事に活かすことができる反面、非常につらい経験もしなければなりません。
 「医師―患者関係」として出会った、例えば最初から寝たきりであった方を看取る場合には、個人的感情は入り込みません。しかし、元々おつきあいのあった方が病気になることで「医師―患者関係」になり、しかも最期を看取るとなると、当然個人的な感情が入ってきます。昨年末、若い頃からお世話になっている方を看取るつらい経験をしました。
 村役場OBのSさんは私の恩人でした。総務課長を勤め上げた後、村政相談員として住民と役場の架け橋役となり長年活躍され、ここ数年は診療所や保健センターの周辺を花でいっぱいにするボランティア活動を実践されてきました。
 赴任当初から私のような若造の言うことに耳を傾けてくださり、私と他の役場職員が対立したときや、村長と意見が食い違ったときにも、中立の立場でいながら、心情的には間違いなくいつも私の味方でした。はるかに若い私に対しても常に敬語を使う物静かな紳士のSさんは、私が年をとったら「こうありたい」と思える人物でした。
 病床に伏して1ヶ月程経ったある日の訪問診療で、Sさんはやや苦しそうな呼吸になりつつも、私の顔を見て笑顔で「(中村先生だと)わかりますよ」と小さな声で言いました。その場を離れづらく感じた私は、昔話をしたりSさんの身なりを整えたり、いつもはしないようなことをして長く滞在していました。なんとなく「帰らないで」と言っているような気がしたのです。そのうちにカッと目を見開いたSさんは必死の形相で私に何かを訴えるようにした後に、だんだんと意識が薄れ呼吸が不規則になり、数分間の経過で永眠されました。
 臨終の場面では、家族同様に涙が止まりませんでした。最期の最後に何を言いたかったのでしょうか?村の歴史の生き字引で、だれよりも村の将来を考えていたSさん。「この後の名田庄をまかせましたよ」そう言いたかったのではないかと思えて仕方がありません。
 12月28日、元役場職員らしく、御用納めの日に人生のお勤めを終えられました。
 若くして村に入り、村で医師として育てられ、私を育ててくれた方々を村で看取っていく。私にとってはつらい看取りですが、それがこの地域に対する恩返しになるのでしょうか。
<「とうとうそのときが来ましたか」>
 毎年、終戦記念日になると思い出すのが、シベリアに抑留された経験をもつYさんの最期でした。
 Yさんとの最初の出会いは、平成7年の晩秋でした。軽い腹部の不快感と全身のだるさを訴えて、診療所の外来を受診されました。  
 よく診ると、眼球の白い部分が少し黄色っぽくみえます。黄疸(体内に胆汁がたまり皮膚が黄色くなる状態)を疑い、腹部エコーをしたところ、膵臓癌でした。
 放置すると黄疸が悪化して大変なことになりますので、入院治療が必要です。
 すぐにも入院が必要だったため、その場でYさんご本人に告知しました。すると、Yさんは不思議なくらいサバサバした表情で「とうとうそのときが来ましたか」と言われたのが印象的でした。このときの私には、その意味がわかりませんでした。
<シベリアでの抑留体験>
 それにしても膵臓癌というのは、なかなかやっかいな病気です。進行するまで症状が出にくく、胃の裏側にあるため検査でもわかりにくい上に、治療は困難を極めます。手術しても抗癌剤でも完全に治すことはほとんど不可能です。ただし、金属製のステント(筒状にふくらむ医療器具)を胆管に入れることで黄疸を減らせば、その後しばらくは楽に暮らせます。
 入院して精密検査をした結果、癌はかなり進行していたため、すでに手術はできない状態だと判明しました。癌そのものは治療しませんでしたが、金属製ステントを胆管に挿入することで黄疸は減りました。入院から1ヶ月もたたないうちに自宅に戻ってこられました。
 自宅に戻ってからは、こちらかYさん宅のお宅に訪問診療に行くことになりました。退院当初、Yさんの顔色はよく、食欲も旺盛で、とても病人には見えないくらいでした。診察室では寡黙なYさんも、ご自宅ではリラックスしておられ、いろいろな世間話をしました。そのうちにYさんはシベリアでの抑留経験を話してくれるようになりました。
「とにかく寒くて寒くて大変だった。生きている心地がしなかった。朝起きると、誰かが死んでいる。その次の朝起きると、また誰かが死んでいる。明日は自分かもしれないという怖さと、朝目覚めて生きていることに感謝する気持ちが入り交じっていた。日本に戻りたい一心で、一日一日を耐え忍んできた。」
<麻薬の使用を拒否>
 膵臓癌という病気の性質上、徐々に様々な症状が出てきます。初診から2ヶ月経ったころには、背中の痛みが出てきました。それでもこの時点では、普通の鎮痛剤で治まる程度でした。ところが3ヶ月後になると、痛みはいっそう激しくなり、普通の鎮痛剤では治まらなくなりました。
 私はYさんに麻薬を使うことを強くすすめました。末期癌の痛みに対しては、積極的に麻薬を使用し、痛みを緩和するのが基本です。当然ながら、医師として通常のやり方をすすめました。しかし、Yさんはそれを頑に麻薬を拒否しつづけました。その理由は、私には想像もできないような、抑留経験に基づくものでした。
「わしは今まで生きてこられて幸せやった。しかも、癌なんていう自分の体からできた病気で死ねるなんて、こんな幸せなことはない。このくらいの痛みに耐えないと、シベリアで死んでいった仲間に申し訳ない。」
 まるで、痛みに耐えることが、死んだ戦友への供養だとでもいわんばかりに、修行僧のように痛みに耐えつづけました。
<魂の痛みからの解放>
 癌の末期は痛みとの戦いです。専門書を読むと、その痛みには(1)体の痛み、(2)心の痛み、(4)社会的痛み(3)魂の痛みがあると書かれています。
 四番目の魂の痛み(スピリチュアルペイン)というのは、欧米人の宗教観に基づく概念であり、日本人にはなかなか理解できないともいわれ、実は私にもよく理解できません。
 ですが、Yさんの場合は、なんとなくわかるような気がします。 
 つまり、Yさんは末期の癌になる前に、極寒のシベリアに抑留されたという極限状況の中で、様々な痛みを経験しています。
 戦争体験者の多くが語る「自分だけ助かって申し訳ない」という感情があったに違いありません。このことがYさんにとっての「魂の痛み」であり、しかもそれが長くご自分の心の中に閉じ込められていたのではないでしょうか。
 シベリアで日々死を覚悟してきたYさんにとって、癌になったのは人生で二度目の極限状況です。だからこそ、癌を告知したときも「とうとうそのときが来た」と、当然のごとく受け止める覚悟ができていたのでしょう。
 痛みがひどくなってからは、自らの体の痛みに耐えることで、亡くなった戦友に対する長年閉じ込められてきた魂の痛みを緩和していたのではないかと思うのです。  
 最初の診察から4ヶ月後、生まれ育ち住み慣れた自宅で、息を引きとられました。魂と体、両方の痛みとの戦いから解放され、Yさんの戦争は終わり、亡くなった戦友の元へと旅立たれました。
<雪の降る朝、タネさんを襲った病>
 世の中には我慢強い人とそうでない人がいます。東谷タネさん(89歳・女性)は、笑顔がすてきでユーモアのセンスにあふれ、だれからも好かれますが、非常に我慢強い人でした。
 そのタネさんが、早朝に襲われた我慢できない激しい痛みは「大動脈解離」という、命に関わるような大病によるものでした。若い人なら間違いなく手術するこの病気も、高齢で心臓が弱いタネさんにとっては非常に危険です。入院の上、安静にして血圧を下げ病状が安定するのを待つ治療になりました。
<せめてトイレは自分で行きたい>
 約1ヶ月後、タネさんは退院し、自宅に戻ってきました。病気は一段落しましたが、介護が必要な状態で戻ったことになります。
 以前は老人車を押してご近所を歩いていたタネさんは、全くの寝たきり状態でした。幸い我慢強くて意志の強いタネさんは、ボケることはいっさいありませんでした。ただ、ボケていないがために、羞恥心もプライドもしっかり残っていて、介護者であるお嫁さんに紙おむつの交換など下の世話をされるのを嫌いました。「せめてトイレは自分で行きたい」という意思が非常に強いのです。
 家に戻ってから1週間もたたないうちにタネさんは尋ねるのです。「先生、リハビリすれば、元のように歩けるかのー?」
 正直言って、返答に困りました。タネさんの場合、リハビリはそう簡単なことではないのです。「大動脈解離→血圧を下げ安静治療→寝たきり」というパターンで寝たきりになったため、「リハビリ→血圧上昇→大動脈破裂!」という最悪のパターンが容易に予測されるのです。
 大動脈解離の手術ができなかったため、爆弾を抱えながら生きているようなものですから、リハビリ中にその爆弾が爆発するかもしれない状況なのです。
<「爆弾」が破裂しても、本人の「歩きたい」という思いに応えるか?>
 本人の「再び歩きたい」という強い思いとは裏腹に、家族も悩んでいました。もしリハビリ中に大動脈が破裂したら後悔するだろうか?それとも寝たきりのまま生涯を閉じた方が後悔するだろうか?
 もちろんスタッフの意見もわかれました。2週間に一度開かれるケアカンファレンスでは、医師・看護師・保健師・ケアマネジャー・管理栄養士、デイサービス職員・ホームヘルパー・役場福祉担当者が集まり、議論したところ。。。
 「家族がどう言おうと、本人の意思を尊重すべきだ」
 「自分が担当するデイサービス中に破裂したら、どうしよう?」
 「僕が自分が同じ立場なら、歩こうとだろうなー。」
 「いや、私なら大人しく寝ているわ。」
 最終的には、遠方に嫁いだ看護師でもあるタネさんの娘さんの一言で決まりました。
 「おばあの好きなようにさせてやってください。その方がおばあらしいですから。」
 この一言があってから、スタッフの意見はリハビリする方向で一致しました。それでも不安がる職員に対して、私はこう話しました。
 「人はいずれ死にます。タネさんの場合は、大動脈が突然、破裂して死ぬ危険性が高いけれど、それがいつ起こるかはだれにもわからない。家で大人しく寝ていても起きるかもしれない。もしそれが、タネさんの大好きなデイサービス中だったら、たまたまそのタイミングで起こったというだけだから、それはそれでいいよね。」
 個々のスタッフは異なった視点を持ち、違った思いを持っていますが、おおむね同じ方向を目指さなければなりません。それぞれの方向がバラバラだと、利用者(患者)に対して充実したサービスとはならないのです。複数の漕ぎ手がバラバラな方向に漕いだら、舟がまっすぐに進まないのと同様です。
<「家の延長」としての施設>
 当施設あっとほ~むいきいき館は、診療所・保健福祉センター・デイサービスセンターなどが一体化した、在宅療養を支援する保健医療福祉の総合施設です。その基本コンセプトは「家の延長」であり、「日常的に利用する施設」です。
 基本に立ち返れば、自宅と同じように使っていただきたい施設ですので、喜ばしいこともあれば、具合が悪くなることも、あるいはそこで死ぬこともあるかもしれません。それが人の日常生活なんですよね。何かあったら困るからお断りするようなお役所仕事をする所ではありません。村長から「公共の施設だけど、第2の役場にはしないでほしい」との思いをしっかり受け止めていた私は、訪問看護とデイサービス中のリハビリにゴーサインを出しました。
 リハビリ開始から1ヶ月後、タネさん本人の努力、家族の励まし、スタッフの熱意などにより、タネさんは再び歩いてトイレに行き、付き添いがあればご近所も散歩できるまでに回復しました。
<大病を乗り越え、ポックリ逝った大往生>
 大動脈解離で入院した日から2年ほど経ったある朝、ちょうど私が目覚めたころ、タネさんの息子さんから電話がありました。
 「朝、嫁さんが起こしにいったら、おばあが冷たくなっとった。」
 あわてて着替え、すぐにタネさん宅に向かいました。
 タネさんは、何事もなかったかのような安らかな表情で、その姿は息を引き取った後なのに、「おおー、みんな集まって、どないしたんや?」とでも言いそうにみえました。
 大病を乗り越え、元気なままでポックリ逝った大往生でした。
 最期まで歩き続け、最期は下の世話をしなくてもいい状態でこの世を去ったタネさん。いつも笑顔を振りまき、ユーモアで周囲を和まし癒してくれたタネさん。
 私たちは、あなたをお手本に生きていこうと思います。
 今から10年くらい前のこと、ある肺癌の患者さんを自宅で看取ったときのお話です。
 田中正志さん(78歳、会社経営)は、京都市内の病院に肺癌の末期状態で入院していました。ここ名田庄は、福井県でもっとも京都寄りに位置するため、京都市内の病院に入院する方も、少数ですがおられます。
 正志さんは、肺癌の発見から治療まで、ずっとその病院で受けていて、治療をやり尽くし末期の状態になってから、名田庄の自宅に帰ることとなったのです。
 病院の主治医から電話があり、これまでの経過と現状を聞きました。肺癌の末期で在宅酸素療法はセッティング済みであること、飲み薬の麻薬は十分量飲んでいるが今後も痛みが増えると予想されること、今はまだかろうじて歩くことができること、などでした。
 その中で私がもっとも驚き、しかも困ったのは、癌であることを本人に告知していないことでした。私の場合、ほとんどの患者さんにありのままを話します。しかし、前医が告知していないまま紹介されたケースでは、その後の告知に悩むこともあります。
 それと、もうひとつ大切なことがあります。なぜ、この段階で自宅に戻ろうとしたのか? という理由です。
 正志さんには近所のお寺を立派にするという長年の夢がありました。幼い頃に母親を亡くし、成長するにつれて仏門に傾倒するようになりました。本気で僧侶を目指そうとした時期もあったと聞いています。
 若い頃から会社を経営するようになり、いつのまにか正志さんはこのあたりでも指折りの資産家になっていました。会社も息子さんに譲り、悠々自適の老後を過ごしつつあったころ、近所のお寺の改修工事のために、多額の寄付をすることを決意しました。ちょうどその頃に病気がみつかったのです。
 寄付金をもとに工事の話はトントン拍子にすすみましたが、正志さんには病気との戦いの日々がつづきました。
 いよいよお寺の改修工事が最終段階にかかるころ、病状は日に日に悪くなっていきました。居ても立ってもいられなくなった正志さんは、ついに自宅に戻る決心をしたのです。肺癌の告知はされていなかったものの、日に日に悪化する病状に、我が身の最期を感じたに違いありません。
 正志さんが自宅に戻ったその日の往診で、私は肺癌であることを告知すべきかどうか、往診車のエンジンをかけハンドルを握ったときには、まだ決めかねていました。
 告知するのは私のやり方ですが、前の病院の医師も家族も、告知せずにうまく正志さんとの関係を築いてこられました。私が告知することで、これまでの関係性が崩れることを一番恐れたのです。
 結局、考えがまとまらないまま、正志さんの家の前に往診車は着いてしまいました。
 ゆっくりと家の中に入り、正志さんに初めて会いました。鼻から酸素を吸いながら、ベッドの端に腰掛けていました。呼吸苦がつづいたため、やつれた顔ではありますが、眼光は鋭く、いくつかの私からの質問にも大きな声で答えてくれました。
 型通りの診察を終えた後、迷ったあげくに、こんな質問をしてみました。
私「もしも今後、息苦しくなったり、痛みがひどくなったとしたら、また病院に戻りますか?」
正志さん「いや、何があっても、絶対に病院には戻らないよ!」
 その言葉に強い意志を感じ、私は右手を差し出しました。正志さんは私の右手を力強く握りしめ、堅い握手となりました。言葉はありません。でも、その中で。。。
正志さん「中村先生、最期まで頼んだよ」
私「わかりました、できるかぎりのことはやりましょう」
 そんな男と男の約束があったように感じました。これで「契約成立」です。
 今はインフォームド・コンセント(説明と同意)の時代です。検査するとき、手術を受けるとき、輸血するとき、あらゆる場面で丁寧な説明がなされ、細かなことが書かれた同意書を読んだ上で、患者側と医療側の双方がサインをします。このために膨大な時間が費やされ、山のような種類が積み上げられます。ひとつの医療行為に対して、副作用や合併症の危険性が次々と述べられ、患者側はどんどん不安になります。心から納得し同意したのではなく「儀式だから仕方なくサインした」なんてことも少なくありません。書類によるインフォームド・コンセントの根底には、患者側と医療側の相互不信があると言ったら言い過ぎでしょうか。
 正志さんと私の間には、書類らしき物はありませんし、言葉すらありません。けれども、あの握手以降、家族・スタッフを含めた私たちの関係は、問題がないどころか、非常に良好な状態で経過していきました。あたたかな信頼関係がベースにあったと思います。
 車椅子に乗ることができる間は、酸素ボンベを携帯しながら家族がお寺の工事現場につれだしていました。車椅子に乗れないほどに衰弱してからは、写真やビデオに工事の様子を撮影し、ベッドサイドで正志さんに見せていました。
 お寺の改修工事が完了し、その落成式の朝、正志さんは自宅で家族に囲まれながら、静かに息を引き取りました。
 平成3年10月、福祉バスの購入という偶然のきっかけから結成された「健康と福祉を考える会」。村の保健・医療・福祉の関係者が集まって一致団結し、病弱で介護が必要なお年寄りを在宅で支えようと、次々と事業を展開。
 デイサービスの開始、訪問活動の計画化と効率化、ボランティアグループとの育成と協力、健康と福祉に関する集落座談会や各種イベント。。。徐々に「福祉の心」が広まればいいと思いながら実践していったのですが、潜在的なニーズがあったのか、比較的早い段階で「保健医療福祉の総合施設を建てよう」という運動にまで発展。
 住民も職員も参加した基本構想に長い月日が費やされ、ついには平成11年4月、保健医療福祉総合施設「あっとほ~むいきいき館」のオープンとなりました。
 その翌年の平成12年4月から、いよいよ介護保険制度が開始となりました。あらかじめそれを予測した上で対応していたため、大きな混乱は生じず、介護保険制度はスムーズに導入されました。

 その間、実はおもしろいことがわかってきました。私たちの在宅ケアを支える活動が、数値的に評価されてきたのです。
 国民健康保険の医療費地域差指数は、各市町村が同じ人口構成であったと仮定した場合の一人当たりの医療費です。つまり、本質的な一人当たりの医療費といえます。私たちが連携して在宅ケアを支え始めた平成3年度は、福井県内35市町村のうち低い方から第17位でした。ところが、平成6年度には4位になり、その後も最も低い医療費のランクに位置しています。特に、平成10年度には最も低い医療費の自治体となりました。
 老人医療費も平成6年度以降は、県平均を大きく下回り、県内でもっとも低いランクの老人医療費を維持してきました。
 介護保険における第1号保険料(65歳以上の高齢者が市町村に納める保険料)も、県内でもっとも安い1ヶ月2500円でした。

 それとは逆に、福井県内で最も介護保険料が高く(1ヶ月4000円)、医療費も高いランクにあったのは、海の町E町でした。この町は特別養護老人ホームを有し、従来から施設ケアを重点的に行っており、在宅ケアを受ける高齢者は非常に少ない割合です。この町では、家でお年寄りを看ることがかわいそうで、立派な施設に入れることが親孝行という雰囲気があると聞いています。
 もちろん、どちらがいいか悪いかということではなく、それぞれの自治体が自分たちにあったスタイルの介護を行えばいいのですが、在宅ケア重視の自治体は保険料が安く、施設ケア重視の自治体は保険料が高いのは全国的な傾向です。
 私たちが実践してきた在宅ケア重視の方向性が、医療費でも介護保険料でも数値的に評価されたことは、住民にとってもスタッフにとっても大きな自信につながりました。

 勝手な推測ではありますが、「海の文化」と「山の文化」には明らかに違いがあると思うのです。
 海の文化は漁業が中心。仕事場は「船底1枚下は地獄」とも言われる海の上。仕事場と暮らす場所は別々。大漁の魚を市場にあげて一段落。流通にのせるのは主に女の仕事。男たちが飲むのも遊ぶのもたいていは家の外。気性は荒い。現金収入が多く、男も女も外で働き家を空けがちで、家に帰ってすることは食べることと寝ることだけ。
 山の文化は農林業。田畑を耕し、炭を焼き、牛や馬を飼って生計を立てる。現金収入は少なくても、食うには困らない。家の中には土間と板間があって、生業の場と生活の場が一体化した家屋構造になっている。気性は穏やか。男も女も家の近くで行動し、飲むのも遊ぶのも家が基本。
 いささか極端に対比し過ぎた傾向があり、「今は違う」と言われれば反論はできません。それでも、海山それぞれの生活文化は、そこで育った人々のDNAに深く刻み込まれているような気がしてならないのです。
 山の中では「家」を中心に、仕事と家庭を分けようにも分けられない状況の中で、家族みんなが肩を寄せ合い暮らすことで、家族の絆が強くなり、家に対する愛着がますます強くなっていきます。「生まれたのも死ぬのもこの家」といった感情が自然にわいてくるのでしょうか。
 海の町で生まれ育った私は、この山の生活文化に深く惚れ込んでしまい、見事にはまってしまい、現在に至ります。

<はじまりは廃校利用の施設>
 平成3年10月、福祉バスの購入がきっかけで、村の保健・医療・福祉の関係者が集まって協議した結果、「健康と福祉を考える会」が結成され、デイサービスを開始することになりました。恐る恐る始めたデイサービスも徐々に利用者が増えてきて、さらには住民ボランティアの協力も得られ、軌道に乗ってきました。
 そのころ、デイサービスを実施していたのが、名田庄村老人福祉センターでした。この建物は、廃校になった小学校の校舎を増改築し、老人福祉に活用したものです。
 しかし名田庄村の場合、この廃校になった校舎をすぐに老人福祉センターに転用したわけではありません。廃校直後にこの校舎の住人になった人がいるのです。それがなんと、伝説のフォークミュージシャン高石ともやさんでした。彼のグループは「高石ともやとナターシャセブン」といいますが、このナターシャというのがロシア人女性の名前でないことは、もうおわかりですね。そうです。なたしょう(名田庄)をもじった表現なのです。

 さて、順調に軌道に乗ってきたデイサービスですが、実はここ老人福祉センターは、もともと老人会クラブ活動で元気なお年寄りが集う場所でした。そこでデイサービスを始めたことで、寝たきりで自宅に閉じこもっていたお年寄りも来ることとなり、久しぶりの再会で昔話に花が咲きます。さらに、少し若い世代のボランティアの方たちも入り込み、もちろん私たち保健医療福祉のスタッフもからんできます。自然な形で新たな交流が生まれます。
 そうこうするうちに、誰からともなく「みんなが集えて自然に交流できる場」がほしいという声がわき上がってました。
 当時、この老人福祉センターと診療所は1km、役場本庁とは4kmの距離がありました。車で走れば、すぐ着きそうな距離ではありますが、利用者とボランティアとスタッフには「もっともっとお互い近づきたい」という思いが強くなっていきました。
 ついには、デイサービス予行演習でみずから海パン1枚で実験台になった社会福祉協議会事務局長が決断しました。
「みんなの声を集めて、村長に直談判しよう!」
 健康と福祉を考える会で診療所・役場住民福祉課・社協の全職員で話し合い、ボランティアグループとも話し合った後に、「福祉の森検討委員会」と自分たちで勝手に名付けたあやしげな委員会の署名を持って、社協事務局長は村長に直談判に行きました。
 その翌日、私は村長に呼び出されました。行政職員である私が、上司である村長に直接ではなく、社協事務局長を通じて重要な案件を提出するのは掟破りです。その方が効果があると思い、そうしたわけです。しかし「やはり、しかられるか?」という重い気分で村長室に向かいました。
 
 村長は私を見るなり、笑いながら大きな声で言いました。
 「おー、ドクター。なんや、いっしょなことを考えておったかー。実はなぁー」
 村長は私のことを「ドクター」と呼びます。部下なのに「先生」と言うのも変だし、「中村」と呼び捨てにもしません。役職で「課長」とも呼ばれません。職種の方が呼びやすいのか、いつも「ドクター」です。
 話を聞くと、驚いたことに、村長も同様の計画を考えていたのです。村長は元はスーパーの経営者で、村会議員を経て選挙で当選し、公約は「福祉の村づくり」でした。
 ところが、福祉分野の出身でないため、具体的なことは他から聞くしかありません。そこで、村内の障害者団体や高齢者団体の代表、障害児を持つ親や有識者を集め、私的な諮問機関「福祉懇談会」を開いていました。そこでも、保健・医療・福祉の総合施設の必要性が議論されていたと言うのです。
 全く同じようなことを、職員の集まりである「健康と福祉を考える会」と村長の私的諮問機関である「福祉懇談会」の双方で議論していたのです。その偶然に、村長も社協事務局長も私も、本当に驚くとともに、この計画はぜひ実現しなければならないという思いをいっそう強くしました。
 数日後に、両会の全メンバーが集まり、助役を中心に保健医療福祉総合施設の建設チームが結成されました。
 
 その後、新しい施設の基本構想に1年間を費やし、徹底的に議論しました。   
 従来の公共施設の建設は、自治体トップとゼネコン業者が密室で打ち合わせし、コンペがあればいい方で、いつの間にか図面が出来上がり、その間スタッフと住民は何も知らされることなく工事はすすめられます。完成が近づくと「いよいよベールを脱ぐ」感じで、ようやく施設の全容が明かされる。トップダウンの進め方とはこのようなものでしょう。
 私たちの場合は違います。基本設計どころか、基本構想の段階から、スタッフも住民がも入り込んでいたボトムアップの手法といえます。
 
 長い議論の末、最終的には以下のコンセプトに集約されました。
*在宅ケアを支えるための拠点とし、入院・入所は広域で考える。
*病気・障害への対策だけでなく、元気づくり・健康づくりも行う。
*従来の役所的な用事があるときだけ利用する非日常的な施設ではなく、用事がなくてもつい立ち寄りたくなる日常的な施設をめざす。
*従来の公共施設にありがちな冷たさ・堅苦しさは排除し、あたたかい雰囲気をもった施設にする。

 具体的には、以下の点が施設の図面やその後の運営に大きく反映されました。
*玄関は一つにして、診療所の患者も、乳幼児健診に来る人も、健康教室に来る人もみんなが自然に交流するようにする。
*デイサービス利用者も、当然、正面玄関から堂々と入っていただき、他の住民や職員と顔をあわせあいさつできる関係にする。デイサービス室にバスを横付けして人の目に触れさせないようなことはしない。
*公共施設の事務所は入口の横にあるのが普通だが、監視されているようで住民にとって利用しにくい雰囲気になってしまう。そこで、事務所は奥に配置し、利用頻度の高い多目的ルームを玄関横に置く。
*館内の清掃を知的障害者の授産施設に委託し、日常から障害者との関わりをもつようにする。
 
 障害や病気の有無にかかわらず、全世代の人たちに自分の家のように使ってもらい、住民とスタッフがいっしょになって育てていく施設でありたいと、その当時も今も願っています。

<ところで、だれを最初に風呂に入れる?>
 村の保健・医療・福祉の関係者が集まって協議した結果、デイサービスを開始することになったものの、非常に難しい問題が飛び出しました。いったい第1号のデイサービス利用者はだれなのか?今から15年前の出来事です――。

<「第1号」に失敗は許されない>
 本来なら、寝たきりで何年も風呂につかっていない人をデイサービスに迎え入れたいのです。しかし、予行演習はしても実績がないため自信がありません。こちらが勧めても本人から拒否されることもありえます。もともと銭湯のなかったこの村では、肌を他人に見せることだけでも抵抗があるのです。
 第1号で、失敗は絶対に許されません。一度失敗したら、せっかく盛り上がったスタッフの気持ちが萎えてしまいます。
 まずは候補者選びです。私と看護師、保健師で相談を始めました。重度の障害で寝たきりの方から、比較的元気だけどひとり暮らしの方まで、数名の候補者を選びました。
 話し合っているうちに、デイサービス利用者第1号の条件が出そろってきました。
(1)障害の程度が比較的軽症であること。
(2)感謝してくれそうな人であること。
(3)話し好きで近所の人とコミュニケーションがとれていること。
 この3条件です。(1)はスタッフの負担を軽くするため、(2)はスタッフに自信をつけてもらうため、(3)はデイサービスの良さを口コミで伝えてもらうため、という目的からです。ちょうどこの条件に合うのが、82歳の女性・南あや(仮名)さんでした。

<両手を合わせて喜んでくれたあやさん>
 あやさんは、身寄りのないひとり暮らしの方です。左目が義眼で、右目の視力も衰えてきており、自宅での入浴が困難になっていました。いつも、診察の終わり際に、両手をこすり合わせて「先生、このおばあをまた診てくださいね」と言って帰っていく方です。
 ホームヘルプでの自宅入浴も考えましたが、あやさん宅の浴室は狭く、うちの大柄なヘルパーとでは、浴室に入りきれません。こんな理由で、第1号は選ばれました。
 いよいよデイサービス初日。緊張するスタッフとは裏腹に、あやさんはご機嫌でやってきました。「ありがたいのー、風呂に入れてくれるなんて」とにこやかに話しながら。
 寝たきり老人を想定して練習してきた介護職員にとって、あやさんを入浴させることは「楽勝」でした。ひととおりサービスが終わったあとであやさんは、診察室と同じように両手をすりあわせ、拝むようにして介護職員に感謝しました。「ありがとうね。今日はいいお風呂でうれしかった。またお風呂に入れてちょうだいね」
 やったー、期待どおり! あやさんは喜んでくれ、介護職員は感激していました。その後、あやさんは、この日のことを近所の人たちにうまく伝えてくれて、デイサービスの評判は広まっていきました。まもなく、それを聞きつけた女性が「うちのおばあちゃんも風呂にいれてほしい」と申請してきたのです。

<3年ぶりの風呂に満足して逝ったすみえさん>
 デイサービス利用者第2号候補は、寝たきりで3年間風呂につかっていなかった92歳の女性、角すみえ(仮名)さんです。「死ぬまでに一度でいいから風呂に入りたい」と本人は訴えていました。
 超高齢で長年寝たきりのすみえさんを第2号として選ぶにはかなり勇気が必要でした。しかし、すみえさんの場合「死ぬまでに……」の期日はまちがいなく迫っています。本人と家族の強い要望で、看護師が立ち会うことを条件にデイサービス第2号となりました。
 当日、診療所から看護師を老人福祉センターに派遣して、すみえさんのデイサービスとなりました。福祉バスのストレッチャーに乗ったすみえさんが運ばれます。介護職員はかなり気合いが入っていましたが、それが空回りするほどスムーズに入浴介助は行なわれ、無事デイサービスは終了しました。
 驚いたことがひとつあります。長いあいだ入浴していなかった人が浴槽に入ると、どうなると思いますか? 湯船が垢まみれになるのは、せいぜい数週間風呂に入っていない人の場合です。数年間も入っていない人は、まるで足の型枠がはずれるように脱皮するんですよ。ホント驚きました。
 「気持ちよかったー。死ぬまでに一度風呂につかりたかったんや」。満足そうな笑顔でした。最初のデイサービスから数カ月後、すみえさんはあの世に旅立たれました。

<デイサービスのボランティアグループ結成>
 デイサービスを開始したこの時期に同時進行していたのが、一般住民対象の「在宅ケア講座」です。私や保健師が介護技術や家庭医学の話をしながら、家庭で介護を抱え込まないような雰囲気作りをしてきました。
 最初は80人もの参加者がいたこの講座も、会を重ねるごとに人数は減り、11回目を迎えたときは20人程度となっていました。これを最後の回にしようとしたところ、参加者からこんな声があがりました。
「中村先生! もう先生の話は聞き飽きたから、今度は実践したいんですよ、私たちは」
 なんと最後まで残った参加者たちは、ボランティアとしてデイサービスに協力したいと言ってきたのです。長くこの地で働いてきた中でも、もっともうれしい場面でした。
 デイサービスでの調理の手伝いや、入浴前後の着替えの介助などを行なうこのボランティアグループは、「やすらぎ会」と名づけられました。会員数は50名前後で、現在、活動歴は15年になります。4年前には、初代会長・山本幸子さんから二代目会長・森口敏江さんに受け継がれ、ボランティアの世代交代も順調にすすんでいます。少数ではありますが、男性ボランティアの参加もちらほら出てきました。
 地域全体で介護する雰囲気が、この地域を支えています。自然な形でボランティアとして人を介護し、老いて自分が介護される番になったら自然な形でそれを受け入れる。「お互い様」の精神で支え合う流れが今後も続いてほしいと願います。
 ところで、在宅ケアに対する私たちの取り組みが数値になって評価されたのは、デイサービス開始のずーっと後の平成11年、そう、介護保険制度導入前のことでした。
 ちょうどこの年は、保健医療福祉総合施設「あっとほ~むいきいき館」がオープンした年です。このあたりの話は次回に。

<裸のつきあいは難しい?>
 村役場の住民福祉課長が偶然においしい補助金でゲットしてきた福祉バス。これを「どうやって利用しようか?」と相談に来たついでに、「健康と福祉を考える会」を立ち上げちゃいました。私が名田庄診療所に赴任して間もない、いまから17年前のことです。
 村の保健・医療・福祉の関係者が集まって、第1回目の会合を開いたら、いろんな意見が出るわ出るわ。その勢いで「せっかくいいバスがあるんだから、寝たきりのお年寄りをお風呂に入れる『デイサービス』を始めよう」という結論になったのです。
 しかし、そのデイサービス、簡単には始められません。なにせ、だれも経験者はいませんし、「お風呂に入れている最中にもしものことがあったら、だれが責任を取るんだ」という意見も出ました。
 そもそも、この名田庄村には銭湯なるものが存在しません。ずーっと前から、他人どうしがいっしょに風呂に入る風習がなかったのです。日頃から地域の付き合いが濃厚で、お互いの絆が強い「裸のつきあい」をしているにもかかわらず、本当の「裸のつきあい」はしていなかったことになります。
 そのような事情もあり、「デイサービスやっても、わざわざ風呂に入りに来る年寄りなんかいないぞ」という冷ややかな意見もありました。
 それでも私の中では、「体は拭いてもらっているけど、湯船には1年以上浸かっていない」という寝たきりの方を往診で診るたびに、なんとかしたいという気持ちが強まっていました。

<社協局長が一肌脱ぐ>
 一方、福祉バスをゲットしてきた住民福祉課長の思いは、それどころではありません。有効利用しなければ、たとえ補助金付きとはいえ、無駄遣いだと議会で叩かれてしまいます。みんなの前で課長は言いました。
 「とにかくやりましょう! やるしかないんです!」
 しかし、勢いで始めるには少々無理があります。経験もないのに、いきなり虚弱な寝たきり高齢者を入浴させるのは危険です。そこで私が提案しました。
 「みなさん、どうでしょうか? このメンバーのなかのだれかが水着になって、手足を縄でくくって、片麻痺のお年寄り役になってもらいましょう。一度、練習してみましょうよ。僕がビデオで撮りますから、あとでそれを見て、考え直しましょうよ」
 すると、社会福祉協議会の事務局長(社協局長)が間髪入れずに応えたのです。
 「それなら私が一肌脱ぎましょう! お役に立てるならッ、海パン1枚になりますよ。ガッハッハッ」
 当初私は、役場の新人男子職員がこの役に適していると考えていました。女子職員で志願する人がいたら止めはしませんが、できたらご遠慮願いたい年齢の方々でした。(おこられるかな?)あとになって知ったことですが、この局長、実は肉体自慢の方で、脱ぐのがけっこう好きなようです。でも、酔って公園で全裸になるような人ではありません。

<入浴介助のチェックポイント、服の脱がせ方、着せ方、お湯の温度>
 とにもかくにも、社協局長を海パン一枚にし、手足をしばって片麻痺老人に見立てた入浴サービスの予行練習を行なうことになりました。やがて生まれてくる子どものために買ったばかりの8ミリビデオを、成り行きとはいえ、まさか縄で縛られた海パン1枚のオッサンの撮影に使うことになろうとは思いませんでした。トホホ……。
 数日後に行なわれた入浴サービスの予行練習会には、健康と福祉を考える会のメンバー全員がそろいました。
 実際のデイサービスを想定した練習ですから、お迎えから始めました。福祉バス「ふれあい号」でご自宅にお迎えにあがり、老人福祉センターまで運びます。そして、バスの項部に備わったリフトで、車椅子に乗った片麻痺老人役の社協局長を降ろす。次に、車椅子を押して、センターの室内に入ってもらい、保健師と看護師が体調を問診し、血圧・脈拍・体温等をチェックします。ここまでは順調、順調。いい感じです。
 さて、いよいよ入浴です。年齢を感じさせない肉体を誇る社協局長の体は、たしかに筋肉質で立派でした。いやいや、そんなことはどうでもよくて……。
 服を脱がせる順序のチェックも入ります。脱がせるときは健側から、着させるときは麻痺側から。介護の基本です。
 海パン1枚になった局長に、新米の介護職員がまずシャワーをかけました。
介護職員「ほな、シャワーかけますよ。」
社協局長「うわっちっち! なにするんじゃー!!」
 介護職員は自分の好みの温度でシャワーをかけたのです。親切心で。この介護職員はとても熱好きでしたが、社協局長はぬる好きなのです。個人の好みでお湯をかけてはいけませんね。
 お湯をかけるときには、まずは熱いのが好きかぬるいのが好きか、好みをたずねて、それから足元から徐々に上のほうにお湯をかけていく。あたりまえと言えばあたりまえなのですが、未経験だからわからないんですね。最初のお湯のかけ方をクリアしたら、あとの入浴介助は上手でした。新米といえども、さすがに勉強していましたね。

<で、だれを最初に入れる?>
 とりあえず一通り終わったあとで、反省会を開きました。いえ「反省会」という呼び方はしょぼいので、「発展会」にしようということになりました。前向きでいい感じです。
 録画したビデオを見ながら、あーでもないこーでもないと、みんなで議論しました。重症の利用者のときは診療所の看護師が応援に行くこと、湯冷めしないような工夫をすること、入浴前後に水分摂取を忘れないこと、浴室で不便な箇所の改修費用は、課長が次の補正予算で計上すること、などが確認されました。
 とってもいい雰囲気の中、入浴サービス予行練習会は終わりに近づいてきました。そのときです。
 「ところで、だれを最初に風呂に入れるんだい?」
 予行練習から、一瞬にして現実に引き戻されました。非常に痛いところをついた意見が飛び出しました。それまでのいい雰囲気がいっきに寒くなるような瞬間でした。
 第1号のデイサービス利用者はだれにするのか? もともとニーズのなかったところを掘り起こす作業が始まります。 (つづく)
 医者になってたかだか3年目で、たった一人しか医者がいない名田庄村の診療所所長になった私。懸命にもがきながら、村の人たちと向き合う毎日。
 耳はいいけどボケたじい様と、耳は遠いけどしっかり者のばあ様が、微妙なバランスでギリギリ生活している老夫婦。脳卒中で緊急入院したものの、寝たきり状態のまま退院し、その後は、家族が病院に薬を取りに行っていたケース。長年寝たきりで、家族の力では風呂に入れることができず、なんと三年間入浴していなかった方。
 あーー、医療の限界! このような問題の解決方法は医学の教科書に載っていません。「どうやら診療所の医者と看護師だけでは、こんな方たちを支えきれないなー」と実感していたころ、どこからか風が吹いてきました。

<行政と福祉のベテランにはめられた!?>
 平成3年10月のある日のこと。当時の村役場の住民福祉課長が、社会福祉協議会(以下、社協)事務局長といっしょに診療所にやってきました。その理由は、なんとも妙な相談でした。
 住民福祉課長が、競艇の補助金で福祉バスをゲットできたというのです。その福祉バスは13人乗りで、車椅子やストレッチャーでもリフトで上げて乗れるようになる、非常に優れた福祉用の車両でした。
 それにしても変ですよね。まず、必要性を考えてから、物を購入するのがスジです。でもこのような補助制度での福祉バスは、早く手を挙げないとよそに取られてしまので、とりあえずゲットしたというのが実情です。
住民福祉課長「いやー、中村先生。忙しいのに申しわけない。じつは、福祉バスっちゅーのをこのたび買いまして、なんかえー利用方法はないもんですかいのー?」
私(中村)「これを機会に、福祉バスの有効利用だけじゃなくて、お年寄りを支えるしくみづくりをみんなで話し合いましょうよ」
社協事務局長「えーですなー。それでは、中村先生を会長にして、みんなで話合う機会をつくりましょうよ」
私(中村)「なんですとー!?」
 定年間近の住民福祉課長は行政のベテランで、社協事務局長は福祉畑のベテラン。たかだか医者3年目でよそ者の私など、人生経験では足元にもおよびません。その私を会長にして、村の保健・医療・福祉の関係者をみんな集めて話し合おうと言うのです。私は「そんな機会があればいいな」と思っただけで、自分が中心になろうとは思ってもみませんでした。
 今考えると、この古狸たち(と言っては失礼か?)にはめられたような気がします。
 そうです。このような多職種の集まりで、いちばん煙たがられるのが医者なのです。そんな医者でも、自分が中心ならば、わがままも言えないし、まとめなきゃいけないから医者自身が周囲に気を遣わなければならない。うまく、やられちゃいました。

<まずは会の名前を決めましょう>
 数日後、診療所からは医師(私)・看護師・事務員が、役場住民福祉課からは課長・保健師・福祉担当者・保健担当事務職らが、社協からは事務局長・保健師・ヘルパー・事務職員が集まりました。
 どうやって切り出したらいいのか、私は考えあぐねていました。
 別々の部署から集まってきて、「さぁ、話し合いなさい」と言ってもそうそう意見は出てこないのがあたり前。意見を言う人は言うけど、気が小さい人は発言しない。いったいどうしたらいいのか?
 そこで最初に、同じ部署の人が重ならないように4人ずつのグループに分けました。各グループで話し合ってもらったのが、会の名称についてでした。
私(中村)「みなさん、せっかく集まったんだから、これからみんなで村のために何ができるか話し合いましょう。まず、会の名前を決めちゃいましょう。この会をどんな会にしたいのか、それを踏まえて各グループでキーワードを出してください」
 この一言で、いっせいにグループでの話し合いがはじまった。4人程度の小グループだと、全員が参加しての話し合いになるので、だれも人ごとのような顔はしていません。
「これからは高齢化が進むし、福祉の時代だろう!」
「あんまりしょぼくれた暗いことばは嫌やな。元気か健康はどうや」
「この村で最期、死ぬときにいい人生やったと思えたらええな」
「いきなり大きなことはできんけど、とりあえず知恵を出し合って考えようや」
 いろいろな意見が飛び交い、なかなか収拾がつかないくらい話し合いは熱を帯びてきました。最終的にこの会の名前は「健康と福祉を考える会」となりました。家で最期を迎えられる村づくりの第一歩でした。

<お年寄りと元気な人たちのふれあいを乗せて>
 ところで、福祉バスの件はどうなったか? 
 実は、この話し合いのなかで、福祉バスをきっかけに「せっかくいいバスがあるんだから、寝たきりのお年寄りをお風呂に入れる『デイサービス』を始めよう」という結論になったのです。バス(Bus) 買っちゃったから、バス(Bath) に入れよう!ってな具合ですね。
 そうなんです。順序が逆なんですよ。ふつうは、デイサービスをやるからバスを買うんですよね。でも、うちの村の場合、バスを買ったからデイサービスを始めることになったのです。「できちゃった結婚」ならぬ、まさに「買っちゃたデイサービス」が私たちの出発点でした。
 さて、バスの名前も決めなければなりません。自分たちで考えるよりは、村の皆さんにアピールする目的もあり、公募で決めることになりました。
 その結果、ついた名前は「ふれあい号」。このバスを通じて、住民とスタッフが、寝たきりのお年寄りと元気な人たちが、みんながふれあうようにという思いが込められています。
 私個人としては、デイサービスを利用するお年寄りを迎えにいくバスだから、その機能通りに「お迎え号」というシンプルな名前を考えていました。しかし、他のメンバーからは「お年寄りに対して、『お迎え』は失礼ですよ。霊柩車じゃないんだから」と、ごもっともな理由で却下されてしまいました。トホホ……。
 さてさて、デイサービスの開始ですが、そう簡単にはいきません。なにせ、だれも経験者はいないし、「お風呂に入れている最中にもしものことがあったら、だれが責任を取るんだ」という意見も出ました。
 そこのところをどう乗り越えたか? それは次号で。

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